味噌の歴史

味噌の歴史

【大陸からの伝来】
味噌にはその歴史を辿るための古典資料というものがほとんど存在していません。
しかし、大宝1年(701年)に天武天皇が定めた大宝律令の中に「醤院」の制があることから、当時の貴族の食生活の中に「醤」というものがあったことがわかります。
「醤」とは中国から伝来した調味料のことで、「味噌」とは異なるものでした。
『正倉院大日本古文書』には、地方から租税として「醤・未醤」を徴収していたとあり、天平の時代には庶民のものでもあったことがわかります。
また奈良・平安時代には「醤・未醤」の名前で地方の物産として称されています。
この「未醤」という単語は中国の言葉にはなく、「醤」に日本人が手を加えた新しい調味料で、現在の「味噌」の前身にあたると考えられています。
【平安時代】
奈良時代まで大陸伝来の調味料だった「醤・未醤」ですが、平安時代になると日本独自の調味料として「味噌」が登場します。
『延喜式』(927年)に、当時の高級官僚には「味噌」が月給として支給されていたことが記されています。
当時「味噌」は料理に使うものではなく、食べ物につけたり、かけたりして食べられ、また薬としても使われていたようです。
どちらにしても貴族の食べ物であり、庶民の口にはなかなか入らない高級品でした。
贈答品としてお役人の家に届けられたという記述も残っています。
味噌の売買は平安時代以前から行われていましたが、この時代には味噌の専門店も登場します。
『延喜式』には京都東市の醤店と西市の未醤店が記載されています。
この公設市場には米屋、塩屋、油屋、絹屋、櫛屋など生活必需品の店が多くあり、高級品とはいえ味噌も同等に扱われるようになっていきます。
【鎌倉時代】
鎌倉時代から、味噌汁は作られ始めたと言われています。
この時代禅宗の寺では、来日した中国の僧の影響もあってすり鉢が使われていました。
そこで「粒味噌」をすり潰して初めての「すり味噌」が作られたのです。
「すり味噌」は水に溶けやすかったため、味噌汁として使われるようになったのです。
この味噌汁の登場により「一汁一菜」といった鎌倉武士の食事の基本ができ、その後の時代にも受け継がれていきます。
しかしまだ武家や僧侶と言った特権階級の食事であって、庶民に普及していくのは室町時代になってからとなるのです。
【室町時代】
室町時代になると、ようやく味噌汁が庶民の生活にも普及してきます。
そのためこの時代から、現代に伝わる味噌料理の基本が作られ始めていきます。
なぜ味噌汁が普及し始めたかと言うと、大きな理由の一つに大豆・稗・粟の栽培奨励策が出され、それによって大豆の生産が増加したことがあげられます。
「武家にては必ず飯わんに汁かけ候」というように、これから戦国時代にかけて、ご飯に味噌汁をかけて食べるのが普通だったようです。
また、味噌の自家醸造もこの時代からはじまりました。
さらに室町時代末期には、味噌を造る過程から醤油が発明されたとされています。
【戦国時代】
戦国時代でも味噌は重要な役割を果たしています。
戦をする武将や一般兵にとって、エネルギー源としての米と栄養源の味噌は必需品です。
戦闘能力はこれらに大きく左右されるため、軍糧はとても配慮されていたようです。
米はもちろん、味噌は発酵食品のため運搬には注意を払い、工夫を凝らしていたといいます。
そのせいかどうかは分かりませんが、味噌の醸造法が発達した時代でもありました。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人とも豆味噌が盛んな地方で生まれ、武田信玄が信州味噌の基盤を造り、伊達正宗の奨励した仙台味噌は、今に至るまで愛され続けています。
【江戸時代】
味噌の扱いが現代に近くなるのは江戸時代からです。
当時の江戸の人口は多く、江戸や近郊で取れる生産量では賄いきれなくなり、三洲味噌や仙台味噌が海路で江戸まで運ばれるので、味噌屋は大繁盛します。
「味噌買う家に蔵は建たぬ」という言葉があるように、武士・農民・商人は自家醸造をしており、おもに味噌を買うのは庶民だったようです。
「味噌蔵」や「味噌豆」をはじめ『東海道中膝栗毛』には各地の味噌料理が紹介されています。